2006年 11月 12日
君はひとりじゃない…
現在、その小学校は跡形もない。壊された跡地には、東急デパート本店と渋谷文化村が出来た。
渋谷の繁華街近くにあったから、様々な生活環境の違った子供たちが通学していたものだ。
恋文横町にあった「餃子屋」の女の子、「衣料品店」の息子。円山町の「下駄屋」のお嬢さんに、「芸子さん」の娘に息子。松涛町からは「銀行」の息子、宇田川町からはボクのような「土建業」の息子に、「会社員」の娘たち…。丘の上にあった「白い教会」から娘たちが…、「易者」の兄妹…、それに「美容室」の息子…など。様々な生活環境の違った子供たちが、ボクの小学校には通っていたものだった。
小学校4年の頃だったか、授業がすむと、子供たちは示し合わせたようにあちらこちらから各人の自転車に乗って、駒場まで走り抜ける。途中、松涛町の坂をあがることになるのだが、この坂道がキツかった。そんな思いをしてまでやりたかったのは、野球、である。場所は、東大グランド、だ。
野球と言っても、ソフトボールである。軟球でもなければ、いわんや硬球でもない。
ボクはよく、ピッチャーをさせられた。下から投げる、アレである。
三振という高等なルールがない。とにかく、打者に打たせてあげるのがピッチャーの役割だったから
「いい球」とは、打ちやすい球、を言う。バットを振り回しても、なかなか当たらないような球を投げると「誰か、変われよ!」と文句を言われる…。
女の子たちも参加していた。スカートの裾をパンツの中にしまい込んで、彼女たちはバットを振り回す。もの凄くよく打つ女の子がいたが、彼女は大きくなって選んだ大学は日体大だった。…2年生の時、難病にかかって病死した。彼女は、野球も水泳も群を抜いて上手だった。「貸本屋」の娘さんだった。
「畳屋」の息子は、かけっこが速い。だから、運動会ではいつもクラス代表のリレーの選手として、先生に指名される。4人チームで走るのだが、この息子は毎年アンカーを走った。鉄棒も滅法上手で、5年生なのに、大車輪をやってのけた。…しかし、グローブと自転車を持っていなかった。ボクは放課後、自転車でこの息子の家に寄る。「東大で野球しようよ!」そう言って、誘う。この息子がボクを後ろに乗せて、松涛町の坂道を一気に登ってくれた。それがボクには気持ちいい。「すげぇ~~、一気じゃん!」
でも、「銀行」の息子と「歯医者」の息子は、なぜかこの息子を仲間に入れない。「グローブないヤツは、あぶない」というのが、その理由だった。アッタマにくる、こいつら! しかし、残念なことに勉学の成績は畳屋の息子は下の下で、嫌みな奴らは、上の上。
だから、ボクは「ピッチャー、やらせろよ。いい球投げるから、さッ」
結局、「銀行」と「歯医者」の息子たちは、「畳屋」の息子の投げる速い球に全くバットがあたらず仕舞い、…だった。
日が暮れて、また東大グランドへ…。
ひとつのことを、みんなでやってみる。その楽しさは、ボクの場合は子供の頃に培われていた…。
「畳屋」の息子は、中学なったとき、どこかに引っ越しして渋谷からいなくなった…。
松井選手が、最近、日本の小学生たちに「メッセージ」を送った。
「君はひとりじゃない」と。「愛されているんだよ」とも、語っている。
そして、アメリカにいる子供たちには、「今度は優勝報告で来られるといいね」とも伝えてきたという。
松井秀喜。子供たちにとっては「ヒーロー」。自分の部屋に「松井選手」のポスターを飾っている少年だっていることだろう。その「ヒーロー」がいま、現実に自分の目の前にいて、語りかけている。
もし、ボクがあの頃、目の前に「長嶋茂雄」がいて、語りかけてくれたら…きっと、一生の想い出になったことだろう。
松井選手は、子供たちと写真を撮ったり、握手したり、質問に答えたり…と。松井選手のひとつひとつの「言葉」が、そこにいた子供たちには、「一生の宝物」として記憶に残ったに違いない。
子供たちに「お礼」を言う松井選手の姿がボクには、自分の子供時代を思い返してくれた…。
そして、現実に松井選手の「ナマの言葉」に触れた子供たちは、彼の姿を「永遠」にしたことだろう。こういうことを率先して実行する松井秀喜選手に、ボクはまた一層親近感が増してくる…。
野球の時代… こんな言い方は、もはや古めかしい言葉になってしまったのか…。
「野球」という言葉を聞くと、ボクは渋谷の夕焼け色が浮かんでくる…。
…NY152…
by mlb5533
| 2006-11-12 04:45
| 第一章