「夢たち」が復活した日

大リーグの各チームは、今季の大詰めを迎えています。

どこのチームが「10月」に出てくるのか、各球団を応援するファンたちは気が気ではありません。ワイルドカード順位も追いかける季節になって来ました。
それにしても、数字とスポーツ競技は切っても切り離せません。数字という無機質な記号に、人たちは一喜一憂する。…そう、ボクも例外ではありません。
MLBサイトは、先々週あたりからマジックナンバーが登場していますね。いち早くそれが記入されたのは、今季NLのNYMでした。
我がNYYは、現在「15」と記されています。2位のボストンとは、9.0ゲームの大差をつけてしまった…。この時期にこの数字は、大リーグファンのボクにとっては淋しい。強いボストンが消えてしまって、ヤンキースの独走とは…。

ヤンキース選手にとっても、大詰めを迎えている時期なのですが、各コーチ陣にもまたチーム全体の方向性を決定する時期でもあります。「10月」からのワールドシリーズに向けて。
現在のコーチ陣の中には、有名な元監督もいますね。フィリーズの選手とのパイプ役になったコーチもいるのですが、ボクの関心は「ドン マッティングリー打撃コーチ」です。

a0094890_4393853.gifドン マッティングリー(Don Mattingly)
10代目のヤンキースチームキャプテン。
82年から95年、14年間ヤンキース一筋の選手生活での生涯打率は「.307」です。
84年は「.343」で首位打者。85年は「145打点」で打点王とMVP。86年は「238安打」して、最多安打。ヤンキースの「永遠の3割バッター」であり、ゴールドグラブ賞9度獲得の優れた一塁手としても、多くのファンの記憶にとどまっている選手です。

しかし、ベースボールは「ひとり」では出来ません。チームプレーのスポーツ。
ひとり気を吐いても、そのチームを「勝利」に導くのは困難でしょう。

マッティングリーが在籍していた期間、ヤンキースは「1位」になったことは一度だけ、それも地区1位です。もちろん「ワールドシリーズ優勝」とも無縁の球団でした。
彼は、1990年。最下位争いになって観客が遠退いていくスタンドを見て、かなりの苦しみを持っていたと聞きます。このことは、後のヤンキース伝説になるほど、マッティングリーはヤンキースを愛したし、大切にしていたようです。彼にとってさらに悪いことに、膝を壊して7月には障害者リストに。シーズン後半復帰しますが、チームは低迷からの脱出は到底出来なかった…。

シーズンオフに思い切って大手術を受け、1991年に復帰する。
152試合に出場したものの、打撃成績は.288。打点は68にとどまった…
チーム成績は71-91、勝率.438で、東地区(当時は西地区との2地区制)7チーム中の5位。90年の67-95、勝率.414で、最下位ほどではなかったが、それでもチームはシーズン中に上位に上がることは一度もなかったのです。

マッティングリー選手は1995年まで14年間現役を続け、その前年1994年には3地区制に。
この年、チームは久々に東地区で「地区1位」になった。1981年に地区優勝して以来の快挙だったのに…。でも、あのストライキが長引き、地区予選もリーグ優勝決定戦も、そしてワールドシリーズも中止が決定。米国のベースボールファンは、紛争に嫌気がさして、スタンドから離れていってしまった…。
そして、翌1995年。彼が現役最後の年にヤンキースは「ワイルドカード」で地区優勝決定戦に出場しますが、NYY2-3SEAで敗退しました。

ドン マッティングーは、14年間ヤンキースの、いや大リーグのスター選手中のスター選手です。
彼はヤンキースにいて「優勝」を知らない。地区予選出場、というのが彼の属した「ヤンキースのチーム成績」です。

冬のグランドで、いつか来るであろう夏の眩しい光を「夢」見た選手だったことでしょう。その姿は「冬の時代」の貴公子、でした。14年間という途方もなく「長い冬」の中で過ごした選手生活で、一度や二度「リングの輝き」を…と「夢」見たに違いないとボクは思います。

マッティグリー選手が入団する少し前、ヤンキースにはこんな派手な歴史もありました…
日本では、1979年にあの日本シリーズ広島対近鉄の死闘で、「江夏の21球物語」が生まれたが、その前年1978年の米国大リーグの地区予選のことです。

忘れるはずがありましょうか、「1978年の物語」ヤンキース対レッドソックスの死闘を。

7月後半の時点で首位レッドソックスとのゲーム差は14。どう見ても、ヤンキースは届かない。
かつて、巨人軍の長嶋監督が「メイクドラマの物語」を完結してくれましたが、それ以上のゲーム差でした。ヤンキースは、ビリー・マーティン監督を更迭すると、後半戦から連勝、そしてまた連勝と追い上げ、レギュラーシーズン最終戦でついに99勝63敗で同率首位でレッドソックスと並んだのです。
そして、1978年10月2日。
レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークで、史上初の地区優勝をかけた「ワンゲームプレーオフ」が行われました。ヤンキースは2点ビハインドで迎えた7回表、無安打だった「バッキー・デント遊撃手」が左翼後方のグリーンモンスターを越える逆転3ランを打ち込んだのです。「夢」を見ているようだったと、その試合を知る友だちは未だに熱く語ってくれる…。
逆転に成功するとその後も2点を加え、まさに死闘の末、「5-4」で辛くも勝った!
宿命のライバルを撃破出来たのです。
勢いに乗ったヤンキースは、その後ロイヤルズ、ドジャースと破り、遂に、「ワールドシリーズ連覇」を現実にしてしまった…。

と、いう物語は…マッティングリーがヤンキースに加入する前、でした。
こんな派手な歴史は彼が入団して14年間、水を打った静けさの中に解けて沈んでしまったのです。

「さようなら ヤンキース…」

多くのファンがStadiumから姿を消してしまった時代に、マッティングリーは打席に立ち続けました。
…誰のための、プロ選手、だったのか。


ボクは、今季米国大リーグに対して、絶対に捨てられない「夢」があります。
いや、意地、と言ってもいいです。気の弱いボクだけど、これだけはどんなことをされても持ち続けます。それは、「松井選手とマッティングリーコーチの握手」を10月に見届けるってことです。
自分の「夢」を抱いて太平洋を渡ったひとりの日本人野球選手が、ベースボールの本場米国で自分の「夢」を見果てぬ夢に終わったひとりの元選手から指導を受け、そして…やがて「輝く日」を!
絶対にボクは自分のこの目で見届けたい… そんな男たちの、美しい真実のドラマを。

松井選手の恩師は、ニッポンでは長嶋茂雄さんと言うことを誰もが知っています。
しかし、彼の打撃の更なる向上をさせてくれた米国での恩人はこの人、ドン マッティングリー打撃コーチです! これだけは、みんなに知って欲しいです。

で、ボクは思う…コーチの気持ち、のことです。自分が果たせなかった「夢」を誰かに伝えることで、伝えられた人がその知恵を生かす…そうすれば、伝えた人は伝えられた人の中で生き続けることが出来る…ってことを。
ボクは単純な人間だから、素適なことだなあって、そう思えるのですよ…。

松井選手とマッティングリーコーチの「夏のまぶしい光の輝き」を、ボクは10月初冬のYankeeStadiumで見たい! ふたり揃って、輝くばかりの笑顔を見たい! 

実は、これがボクの今季の「夢」です。

松井選手は笑顔で復活しましたね。
復活、です。ベースボールを見果てぬ夢、にしてなるものか…。
松井選手とマッティングリーのふたり「夢」は、日本にいるボクの「夢」でもあります…。
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(コラージュは筆者制作/筆者個人資料共)
…NY152…
by mlb5533 | 2006-09-09 04:01 | 第二章