「夢の羅針盤」

第八章「夢の羅針盤」

旅に出ようと思う。
旅と言っても実際どこかに観光旅行に行く計画ではない。しばらくの間、松井秀喜選手を自由にしてあげようと感じたから。この7年間、ボクは彼を縛り付けていたように思う。
ああなって欲しい、ここはこうすべきだ、もっとこうして欲しい…だのと、要求ばかりしてきたように思う。
要求、期待という言葉は、うまくいかない。もっともボクのようなファンはこの言葉ばかり松井選手に浴びせていたようだ。もう少し、ボクも彼のような大人にならなくてはいけない時が来た。
開放してあげる時が来た…。

彼のMVP獲得の式典の様子を見て、こみ上げるものがあった。要求を叶えてくれたサンタクロースではなくて、とても大きなひとりの人間・松井秀喜を見させられた。その姿は眩しいほどだった。さんざんこの7年間、彼に声援を送り続けた、といっても、ボクの声援とは実際には、期待と要求だけだったのかも知れない。
気がついたのだ、ボクは。MVP式典での松井選手の笑顔から、自分があまりにも幼いことに…。

今季開幕からしばら打撃は不振が続き、そんな中、不要論まで飛び出してボクに冷水を浴びせた。そんな冷たさが消えないまま松井選手は「10月決戦」に進出した。その舞台で彼は歴史的活躍をし続けて、存在感を示してくれた。だがそれでも、高齢化するヤンキースチームにあって、球団は若返りを模索しているという。松井選手のみならず、チームの若返り策に名前の挙がっている選手は多い。
じれったいやら、イライラやら。複雑な気持ちが続いた。あるいは、そんな球団に対して批判したい気持ちを抑えられない。このままではボクは、球団の決定をじっと待っているしかない。球団の決定に振り回されてしまう…。

だから、もう、よそう。そんな気持ちは。
なるようにしか、ならないのだから。

松井選手自身が自分の来季、どのチームで戦うのかを決めることは出来ない。
そこに至るまではそれこそ、年明けになるかも知れないのだ。松井選手の去就に関して、彼に任せようではないか…。自由にしてあげようではないか。そして、ボクもしばらく松井選手のニュースばかり追いかけて、一喜一憂するのにもいささか疲れた…。

だから、旅に出よう。

ボクが旅に出るように、松井選手も将来の自分像を求めてきっとしばらくの間は、旅に出ることになるだろうから。
彼は我が「夢」の方向性を見失うことなく、夢の道標である「目標」をまたひとつ通過した。その「目標」の通過自体、尋常ではなかった。矢面に立っての闘いぶりであり、最終的にMVPに選出された。ここまで成し遂げた人物は、日本人として「初」だった。だから世間は最大級の話題としてとりあげた。

ベースボールというたかが子供でも出来る球技を、松井選手はたったひとりで、その全身を駆使して体現した姿には、一種「美学」の輝きさえ感じる。彼が体現したものは、勝負事だけで解決のつかない情感と、人間的な躍動であり、人々とともに生きている実感をボクたちに示したことになる。まるで「芸術作品」ではないか。ボクから見ると、松井秀喜とは芸術家的素質を持っている人物だ。スポーツマンではあるけれど、創作言語も通じる人物に見えるのだ。

アラビアのロレンス…だったと思うが。こんなことを書き残している。
「男が夜見る夢なんざぁ取るに足りねぇさ。最も危険な夢は、男が昼間目を開けて見る夢だ。なぜなら、それを現実にしようとするから…」
だった…かな、うる覚えだけど…。

「夢」とは、人間が抱く普遍的しあわせ、である。幸せに人生を送っていきたい。万人共通のことばだ。
しあわせ、をしっかりと見据えてその羅針盤が示す方向を変えない人生を歩めるコツは、ひとつしか存在しない。それは「自由」でいることだ。人生は選択できる、というアイデアの土台には「自由」がなければできやしない。自由を欲しがっても、一部の人々にはそうさせなかった歴史を持っているのがアメリカ社会だ。黒人初の大統領が誕生して丸一年後のアメリカで、日本を代表する4番打者・松井秀喜選手が、アメリカの国技であるベースボールで、日本人初のMVPを獲得した。アメリカ文化の頂点に立ったとも言える。頂点に立った人に野球の神様が贈った物は「限りなく広がる自由」に違いない。
彼がいま握っているのは、「夢の羅針盤」だ。

松井選手はそのコンパスが指し示す方向にこれから「旅」に出ようとしている。どのような「旅」になるのか、見定めよう。さあ、ボクも、松井選手にあやかって自由の旅に出ることにしよう…。

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by mlb5533 | 2009-11-09 02:20 | 第七章