ヤンキース「永久欠番」-第3話-

a0094890_2432353.jpg現在、ボクの手元には正確な情報がないのでMLBサイトの記事に頼るしかありませんが、気になっているのは、「714」のことです。
サンフランシスコ・ジャイアンツのバリー ボンズ選手が通算本塁打記録が現在「713」になっています。
「714」まで、残すは後1本…

あの偉大なるベーブ ルース選手の通算本塁打記録まで、後1本と迫っているのです…

しかし、米国メディアはバリー ボンズ選手の記録を追いかけている様子は感じられません。どうあれ、偉大なる記録の達成が目前まで迫っているというのに米国のメディアはさほどの関心がないのでしょうか。
むしろ、この記録をバリー ボンズ選手の「薬物疑惑」に置き換えて、報じているようにボクには思われます。
…つまり、「彼の記録は八百長だ」と言わんばかりです。

確かに、バリー ボンズ選手には「疑い」はかかっています。それは、あくまでも「薬物疑惑」であって、「本塁打疑惑」ではないとボクは思うのです。
この「疑い」は、バリー ボンズ選手だけに限りません。
いまでは、そして1998年に70本の本塁打を打ったマーク・マグワイア選手(通算583本)と同年66本の本塁打のサミー・ソーサ選手。2001年にはバリー・ボンズ選手が73本の本塁打を打っていますが、彼らの記録に「待った!」が、かけられそうです。
…「*」の印が付けられるかもしれません。

当時、MLBでは禁止されていなかったものの薬物の使用を認めています。
ルールがはっきりしていない… 
この曖昧さが、悲劇の始まりではないでしょうか。
もっと言えば、なぜ、彼らがそこまでしなければならなかったのか、という議論がボクは欲しいのです。

問題は、この点、ルールが不明確、に在るように思うのです…

2002年からいきなりMLBでも、「ドーピング疑惑」という言葉が入ってきました。
マーク・マグワイア選手が、2004年の薬物疑惑スキャンダルで米議会で証人喚問された際、薬物使用を問われ、「過去の自分の行為は現在のスキャンダルとは無関係なのでお答えできません」と涙まじりに議員に懇願した様子はニュース番組でも報じられました。マーク・マグワイア選手は殿堂入りしていませんが、「悪人」なのでしょうか?

米国の場合、「ドーピング(興奮剤)」イコール「ドラッグ(覚醒剤)」のイメージのようです。
蜂蜜もコーヒーも、お酒もチョコレートだって「ドーピング」です。覚醒剤とは違っています。
そして、この底の流れている伝説を感じるのです。それは、ベーブの記録の神格化、だと思えてならないのです…
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この悲劇は1961年に、ヤンキースで起きました…。

ロジャー・マリス選手のことです。
この年、シーズン最後のカードになったボストンレッドソックス戦で61本の本塁打を打ち、あの偉大なるベーブ・ルース選手の60本塁打の記録を遂に更新したのです。

が、しかし…。

当時ベースボールコミッショナーだったフォード・フィリック氏はロジャー・マリス選手の本塁打記録を公式には認めませんでした。

「61*」

と、記録ブックに書き込んだのです。「*」とは、「参考記録として」の意味あいからこの印をつけたようです。MLBの公式記録として認められたのは、ロジャー・マリス選手の死後1991年になったからのことなのです…

なぜ、こんな悲劇が大リーグで起きたのでしょうか?

そこには、「ベーブ・ルース選手の60本塁打」に対する神格化があったからだとボクは思っています。ベーブ・ルース選手は確かに偉大でした。ベースボールを米国の国民的スポーツに育てた人物ですから。ルー・ゲーリッグ選手でさえ、彼の脇役としての印象です。

ベーブ・ルース選手が活躍していた頃のリーグ戦は154試合でした。しかし、ロジャー・マリス選手が61本の本塁打を打ったのは、リーグ戦162試合、現在と同じです。

あの頃のヤンキースは「Mickey Mantle's team」と、メディアは書きたてていました。そして、移籍したロジャー・マリス選手とミッキー・マントル選手を「M & M Boys」と書きたてて、あたかもふたりを張り合わせるような記事を掲載していたようです。
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ロジャー・マリス選手は比較的、ニューヨークのメディアには受けが良くなかったようでした。
後にロジャー・マリス選手の苦悩を証言したチームメイトによれば「あの頃、ロジャー・マリスはメディアの対応に苦悩していた。なぜ私が、不機嫌な人間とか無愛想な選手と書かれるのか、と」
ミッキー・マントル選手でさえ、ジョー・ディマジオ選手の後継者として頭角を現しはじめた頃、スポーツメディアは批判的だった。しかし、ミッキー・マントルは陽気だったこともあって、次第に好意的な記事になっていたようです。

メディアが選手の人柄を創る…

そして、1961年。
ニューヨークスポーツ記者ディック・ヤングが、「たとえ60本を超えても、ベーブの記録を154試合で更新しなければ、認められまい」と、記事にしています。
試合数を、ルールの物差しにしたのです。
「ウッソッ~ じゃあ、各球場の広さだって当時とは違うだろう、よ」って言いたくもなりますよ、ね。

これを受けて、コミッショナーが「154試合以後の記録は、すべて参考記録とする」と声明を出したのです。
いかに、ベーブの記録を擁護しようとしているか、お分かりの通りです。ベーブを犯してはいけないのです、米国大リーグでは…
日本には、王選手の「55」が今では神格化されつつあるような気がしますが…


61年、「M & M Boys」はメディアの期待通り、本塁打を量産しました。ところが、ミッキーがシーズン途中に伝染病にかかって、後半の試合を棒に振ったのです。人気者が脱落してしまったのです。
さほど人気のないロジャーがひとりがんばりました。

しかし、メディアは「 "outsider", and "not a true Yankee."」と書きたて続けました。そのせいで、ロジャー選手は円形脱毛症にもなったと、後にチームメイトがコメントしています。
この表現は、現在のA・ロッド選手も書かれたことがありましたが、いまではそれも無くなりましたね。


a0094890_315925.jpgロジャー選手は、クロアチアからの移民の子でした。
22歳、1957年にクリーブランド・インディアンスでメジャーデビューを果たし、58年のシーズン途中からカンサスシティアスレチックスに移籍。25歳の1960年にニューヨーク・ヤンキースに移籍しました。同年から2年連続でMVPを獲得してます。また、歴代ヤンキースの右翼手で最も守備が上手いと称され、1960年にはゴールドグラブ賞に選ばれている名選手です…。

ところで、当時の選手の生活はどうだったでしょうか?

年間1000万ドルプレーヤーを「一流選手」という現在の大リーグ選手の生活ぶりとは、比較になりません。低所得でした。
1960年代の一流選手だったミッキーもロジャーも、ごくごく平凡な家庭生活でした。
とくに家族を持っていたロジャー選手は一般市民と同じ、ありふれた我が家で子供たちと暮らしていたようです。高級地に豪邸、豪華マンションなんて当時の選手たちには考えられなかったのです。遠征先でも、豪華ホテルの宿泊なんて、夢のまた夢。2,3人で同じ部屋に泊まって経費を浮かしていました。
ニューヨーク生活では、ミッキー選手らと共同の生活が出来る家を借りていたと聞きました。
ロジャー選手の楽しみと言えば、家族への電話の時間だったようです…

今日、大リーグの選手たちが「高年俸」と言いますが、こうした収入の改善も彼らの「遺産」と言えるのではないだろうかと、ボクは思れるのです。

では、当時の選手たちの「夢」はなんだったのでしょうか?

ボクは、記録、だと思うのです。
自分が大リーグに在籍して、なにを残せるか…なにを成し遂げられたか、生きた証、が欲しかったのではないか…と、ボクは思います。

26歳のロジャー選手は1961年、61本塁打を放ち、ベーブ・ルースの持つ当時のシーズン最多本塁打記録を破ったと言う歴史的事実です。
このことが、ロジャー・マリス選手の、なににも代え難い生きた証、ではないでしょうか?

「61」とは書かずに、「61*」

それは、ロジャー・マリス選手には屈辱的だったかもしれませんが、彼はこのことに多くを語りませんでした。
結局、ヤンキースでは不幸な野球人生を送ってしまう形となり、1967年にセントルイス・カージナルスに移籍し、翌68年、33歳という若さでユニフォームを脱いで、愛する家族の元に帰りました。

1998年にマーク・マグワイアとサミー・ソーサが右打者として、2001年にはバリー・ボンズが左打者としてそれぞれ、マリスの記録を破っています。

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しかし、ボンズらはいずれも薬物使用を疑われているため、今後、マリスの記録が公式に復活する可能性もありうるのです。

ロジャー・マリス選手は、1985年にテキサス州で癌のため51歳の若さで死去しました。

前年1984年、古巣ヤンキースでは彼の背番号「9番」を永久欠番に指定しています。
                                            …NY152…
by mlb5533 | 2006-05-10 02:57 | 永久欠番

ヤンキース「永久欠番」-第2話-

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背番号「23」: ドン・マッティングリー (Don Mattingly)1塁手のお話です。







「3割打者の伝説」と言えば、もうこの選手を置いて他にいるでしょうか?
まずは、ご覧いただきましょう。
マッティングリー選手の打率の足跡を追いかけてみましたので…。








82年   7試合  12打数  2安打                打点   1 打率.167
83年  91試合 279打数 79安打 2塁打15 本塁打 4 打点  32 打率.283
84年 153試合 603打数207安打 2塁打44 本塁打23 打点 110 打率.343★
85年 159試合 652打数211安打 2塁打48 本塁打35 打点 145 打率.324☆※
86年 162試合 677打数238安打 2塁打53 本塁打31 打点 113 打率.352◆
87年 141試合 569打数186安打 2塁打38 本塁打30 打点 115 打率.327
88年 144試合 599打数186安打 2塁打37 本塁打18 打点  88 打率.311
89年 158試合 631打数191安打 2塁打37 本塁打23 打点 113 打率.303
90年 102試合 394打数101安打 2塁打16 本塁打 5 打点  42 打率.256
91年 152試合 587打数169安打 2塁打35 本塁打 9 打点  68 打率.288
92年 157試合 640打数184安打 2塁打40 本塁打14 打点  86 打率.288
93年 134試合 530打数154安打 2塁打27 本塁打17 打点  86 打率.291
94年  97試合 372打数113安打  2塁打20 本塁打 6 打点  51 打率.304
95年 128試合 458打数132安打 2塁打32 本塁打 7 打点  49 打率.288
                    (★は首位打者 ☆はMVP ※は打点王 ◆は最多安打)
14年間トータル記録は…
1785試合 7003打数2153安打 2塁打442 本塁打222 打点1099 打率.307

6年間連続の3割を記録しています。
現役のバーニー ウィリアムス選手は8年連続の3割を記録していますが、残念なことに昨年までの15年間シーズンの打率アベレージは.298です。なんとしても、今期は.300まで数字を伸ばしておきたいものです。
皆様もご承知ですが、松井選手が今期、打率.310以上を記録出来たら、大リーグ4年間での打率アベレージを3割にのせることが出来ます。まあ、松井選手にしても、バーニーにしても、手の届く数字だと思いますが…。これも今シーズンの楽しみでもありますね…。

さあ、マッティングリー選手のことです。
この選手は、ホームラン打者ではありません。まさしく、アベレージヒッターの鑑(かがみ)なのです。
しかし、彼の本塁打もおもしろい記録が残っています。
1987年に、8試合連続ホームラン はいまでもメジャーリーグ記録のタイ記録になっていますし、同年の1シーズン6本の満塁ホームランは、メジャーリーグ記録になっています。

派手な記録はこのくらいですが、チャンスに強いことから、しっかりと打点を獲得出来る選手でもありました。どちらかと言えば、ファンたちの記憶に残る選手、だったのです。

1981年、ヤンキースはドジャースとのワールドシリーズ対戦以後、15年間、1995年までリーグ優勝どころか「最下位争いのヤンキース」と言われるほどの低迷が続きます。
1985年に盗塁王のリッキー ヘンダーソン選手(Rickey Henley Henderson-89年まで在籍)を補強しますが、それでも「冬」を超えることはなかったのです…。

                                        盗塁王リッキー選手
a0094890_3222399.jpg1994年には、大リーグ最大の危機、「ストライキ」がありました。これによって、ワールドシリーズはもとよりレギュラーシーズンの試合も出来なくなりました。そのことから、ベースボールの多くのファンが去ってしまったのです…

この15年間を「ヤンキース冬の時代」と米国マスコミではそう呼んでいます。

その「冬の時代」に活躍していた選手こそ、「永遠の3割打者」 ドン マッティングリー選手なのです。
ドン マッティングリー選手は、一度もワールドシリーズに出場しないまま1995年に引退。そんな彼の姿を、ヤンキースファンたちは惜しみました…。

一方、球団にも新たな動きが始まります。
1995年11月。シーズンオフにヤンキース新監督が発表されました。
ジョー・トーリ(Joseph Paul Torre)でした。
ジョー・トーリ監督とドン・マッティングリー選手は、お互いにすれ違いの野球人生だったのです。

そして、翌1996年。ヤンキースは新監督のもとで18年ぶりにワールドシリーズを制覇しました。
その後、1998年から2000年のワールドシリーズ三連覇の偉業を達成します。
この時代を「ヤンキース復活の時代」と米国マスコミは呼んでいます。長らく低迷していた名門ヤンキースの完全復活を実現したのです。トーリ監督はみんながよくご存じの、ヤンキース史上初の8年連続ポストシーズン進出も達成していますね。

ドン・マッティングリー選手は、皮肉なことに引退した翌年1996年、アトランタとのワールドシリーズ4勝2敗、18年ぶりにワールドシリーズを制覇したヤンキースの姿をスタンドで観戦しています…。


a0094890_3232073.jpgドン・マッティングリー選手。
ヤンキースの主将は現在ジータ選手で11代目ですが、1991年2月28日から1995年までの期間、10代目がドン・マッティングリー選手でした。

彼は1990年。最下位争いになって観客が遠退いていくスタンドを見て、かなりの苦しみを持っていたと伝わっています。さらに悪いことに、膝を壊して彼は7月に障害者リストに。シーズン後半復帰したが、すでにチームは低迷からの脱出は出来なかったのです。
シーズンオフに大手術をして、1991年に復帰。
復帰した ドン マッティングリー選手はやはり徒者ではなかったのですが、往年の「ヒットマン」としての力量は影を潜めていきました。その後、5年間プレーしますが、94年の打率.304以上を打つことはなくなりました…。

ヤンキース一筋。
1982年から14年間プレーしたドン マッティングリー選手。折りしも「冬の時代」低迷期の真っ只中でした。結局引退までにワールドシリーズに出場することは叶わなかった「永遠の3割打者」ドン マッティングリー選手。
それでもひとりグランドで気を吐き、1984年にはチームメイトのデーブ ウィンフィールド(Dave Winfield;81年から90年在籍)と激しい打率争いを演じ、僅差で首位打者のタイトルを獲得しています。この様子を一目見ようと、リーグ争いからはずれたヤンキースだったが、ドン マッティングリー選手の活躍だけを見たさにスタジアムに足を運ぶファンたち…。
また、デーブ ウィンフィールド選手ですが、彼の背番号「31」は、パドレスでは「永久欠番」に指定されていますね。

                 デーブ選手とマッティングリー選手
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マッティングリー選手は守備にも定評があり、ゴールドグラブ賞は9回も受賞しています。


やがて、時は流れて…、2004年。
トーリ監督はドン マッティングリーを呼び、打撃コーチに迎えました。
現場復帰したドン マッティングリーは、松井秀喜選手始め、あの「ポカ選手」カノー君、そしてディ
レク ジータ選手らの指導にあたっています。

マッティングリー選手を知る古くからのヤンキースファンはそっと静かに、共通の「夢」を見ています。
それは…、
今年ヤンキースがワールドシリーズを制覇し、大勢のファンが見守っている「そのグランド」で、トーリ監督とドン マッティングリーコーチのふたりが握手している姿なのです!

トレードマーク「口髭」を落としたマッティングリー コーチ
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ドン マッティングリー選手の引退した翌々年の1997年、背番号「23」はヤンキース球団では「永久欠番」に指定しました。



(写真はYahoo!sportsサイトより)
…NY152…
by mlb5533 | 2006-03-14 15:19 | 永久欠番

Yankees「#7」の物語

今日はNYYの「永久欠番」のお話でもしましょうか…その第1話です。

ヤンキースファンでも知っているようで、案外忘れているかもしれませんよ。

下記がYankeesの「永久欠番」です。

1 番  ビリー・マーチン (Billy Martin)
3 番  ベーブ・ルース (Babe Ruth)
4 番  ルー・ゲーリッグ (Lou Gehrig)
5 番  ジョー・ディマジオ (Joe DiMaggio)
7 番  ミッキー・マントル (Mickey Mantle)
8 番  ヨギ・ベラ (Yogi Berra) 及びビル・ディッキー (Bill Dickey)
9 番  ロジャー・マリス (Roger Maris)
10番  フィル・リズート (Phil Rizzuto)
15番  サーマン・マンソン (Thurman Munson)
16番  ホワイティ・フォード (Whitey Ford)
23番  ドン・マッティングリー (Don Mattingly)
32番  エルストン・ホワード (Elston Howard)
37番  ケイシー・ステンゲル (Casey Stengel)
44番  レジー・ジャクソン (Reggie Jackson)
49番  ロン・ギドリー (Ron Guidry)

★42番  ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson) 42番は全球団で永久欠番。
ただし、現在はマリアーノ・リベラがつけています。これも、リベラ投手が引退(想像したくもないけど)したら、彼個人の功績をたたえての永久欠番になるのは確実でしょう。

現在16人。それに、「42」を加えれば、17人もの多くの永久欠番があるのは、もちろんYankeesが最高数です。

Yankeesで現存するひと桁の背番号は「2」と「6」ですが、
2番 ディレク・ジーター (Derek Jeter)
6番 ジョー・トーリ(JoeTorre=本名:Joseph Paul Torre:ジョゼフ・ポール・トーリ)監督
このふたりの背番号も、もはや「永久欠番」になるのは誰もが信じていることですね。
これで近い将来、Yankeesはひと桁の背番号は存在しなくなる訳ですね。

          ボクの部屋の壁に額入りで飾ってある「ミッキー500号」の記念写真
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ボクはちょっと前まで、自分のメールアドレスを「NYY7…」にしていました。
NYY7。
そう、「Mickey Mantle(ミッキー マントル)」の背番号です。Yankeesの永久欠番です。
ボクがYankeesと出逢えたのは、この人の物語をNYの友だちが熱く語ってくれたことから始まりました…。まだ、経済記者として単身でNYに赴任していた頃のお話です。
もう…十数年以上も前のことですが。とにかくあの頃、ボクは#7にすっかり魅了されてスタジアムに行くと近くの屋台のNYYグッズの中から、#7関係を買いあさったものでした。

なので本日は、ボクの個人的理由から、NYY7「ミッキー マントル」を書せてください…

a0094890_3423867.jpg彼の半生を描いた映画に「61*」があります。
Mickey Mantleには、ハリウッドスターのトーマス ジェーン
Roger Marisには、性格俳優のバリー ペッパー
が扮しましたが、大変に米国内では物議を提供してしまった映画でした。
それは、あまりにも「事実」に忠実に創ったが為に元ヤンキースにかかわりのあった人たちから、かなりの批判が生じました。誰か? それは、ご覧になるとお分かりになるでしょう…。
この件については、「9:Roger Maris」を後述のときに詳しくご説明しましょう。

さて、ミッキーです。本名:Mickey Charles Mantle.

オクラホマ州スパビノーで1931年10月20日に生まれました。    
通算536本のHRは、スイッチヒッターとして歴代1位の大記録です。
ミッキーがスイッチヒッターになったのは、父親の影響でした。オクラホマの鉱山技術者だった父親はベースボールが大好きな人で、休日は仲間たちとグランドに行ってプレーしていたようです。
スイッチヒッターだった父親のバッティングフォームを子供時分から見ていてミッキーはその影響で、彼も自然と右でも左でも打てるようになったというのが、その伝説の始まりなのです。

ミッキーの魅力は、なんと言ってもあのとんでもない飛距離で飛んでいくデッカイHRでしょう。
最大では180メートルも飛ばしています。
本人が「私の野球人生の中で最も強烈な打球」と言うのは、1963年5月22日にヤンキースタジアムでカンザスシティ・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)のビル・フィッシャー投手のカーブを打ち込んだ時、もう少しで大きなヤンキースタジアムのライトを越えそうだったという驚異的飛距離。このホームランの推定飛距離は189mとも224mとも言われています。

a0094890_3442189.jpg映画会社トライスター社創設の第1回作品「ナチュラル」では、この逸話を元にして、ロバート レッドフォード扮するロイ選手がスタジアムのライトに打球をぶつける感動的なシーンがありますが、これはあきらかにミッキー伝説を知り尽くした脚本家による「ファンタジー」でしたね。

こんな飛距離を出す選手は、後にも先にも、ミッキーだだひとりではないでしょうか…。
ミッキーの大ホームランは当時でも記録的で、「どれくらい飛ばすんだろう?」と、ファンたちも正確な飛距離を知りたくなったようです。そこで、球団広報が実際に巻き尺を持ち出しました。
1953年4月17日のことです。ワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)の本拠地グリフィス・スタジアム(当時)で放った打球は、スタンドを飛び越えてはるか場外へ…。球団広報が巻尺を用いて落下地点までの飛距離を計測した結果、なんと約172メートルも飛んでいました。
正式に記録された打球としては、冗談みたいな話ですが、事実これが現在でもメジャー史上最長弾になっています。
ポストシーズンでの18HRはメジャー史上最高記録で、今もメジャーリーグ記録です。

                                         1961年 ロジャー マリスと
a0094890_345390.jpgまた一方で、ミッキーは俊足で、ドラッグバントも得意としていたことも、ファンは記憶しています。
彼の現役時代は指名打者制度(1974年)がまだなかったため、もし導入されていればもっと長く現役生活を続けられていただろう、と悔やまれます。
想像すると、こんな選手なのです…
バリー ボンズ選手のパワー + R.レッドフォードの甘いマスクと金髪 + イチローの俊足 = ミッキー
なので~~すぅ!! 想像できますか? スゴすぎ、でしょ!

1951年にニューヨーク・ヤンキースの一員としてデビューして以降、ヤンキース一筋の野球人生を過ごし、1968年に引退しました。
しかし、ミッキーはその影で、怪我との戦いを繰り返していたのです。

1951年、弱冠19歳でメジャーリーガーになったミッキーに、多くの注目が集まったのです。
というのも、チームの看板選手でもあったジョー ディマジオの限界説と引退話が集中、新しく若いスターの登場が球団側に求められていたのです。
この年限りで引退するディマジオがセンターを守り、ミッキーがライトを守るという新旧スターが外野で名を連ねたまでは、よかったのですが…。
しかし、若いミッキーは調子が上がらず、その年7月半ばにはマイナー降格でした。ミッキー自身もかなり落ち込んだようでしたが、父親の励ましで復活。桁違いの成績をマイナーで残したミッキーは、8月末にはメジャー復帰。
この年のワールドシリーズでは相手はジャイアンツ。
その第2戦。ウイリー・メイズの打ったフライを追ったミッキーが外野のスプリンクラーに足を引っかけ、右膝を切ってしまうという重傷だったのです。まさに、右足は血だらけ状態だったようです。すぐに手術したものの、「この傷」がミッキーのベースボール人生を狂わせました。彼は引退するまで、この膝の故障に悩まされ続けたのです。しかし、当時のミッキーはその事実をチームメイトはもとより、誰にも語らずにいたということです。デビュー出来た最高に素晴らしい年、だったのに…。

この原因が、ジョー ディマジオの深追い、だったと言われています。
あのプレーは、あきらかにミッキーの捕球で十分でした。しかし、大先輩ジョー ディマジオの「アイガリ!」のひと声で…。以後、ミッキーはジョー ディマジオを避けるようになったという話が、近年になってから元チームメイトから聞かれました。

そして、1963年。
フェンスに体当たりして、左足を骨折。シーズンの大半を棒に振ってしまいました。
翌1964年に打率.303、35HR、111打点という好成績を残しましたが、ミッキーらしい成績を残したのはこの年が最後でした。
この年のワールドシリーズでもカージナルスに3勝4敗で敗北。これ以降、ヤンキースは11年もワールドシリーズの舞台に立つことがなくなります。そして、あの80年代の「冬の時代」になっていきます。「万年ビリはヤンキース」「地に落ちた球団」になっていきましたね…

晩年のミッキーは怪我に苦しめられ、ファーストに移ることも。
そして、結果的には1969年の開幕前に引退を発表しました…

ミッキーの引退は結果から見ると、「古きよき時代/ヤンキース」の幕が下りたことを意味します。
その後、ヤンキース球団は黒人選手問題だの解決しなければならないことが山積みされたままだったことを知ります。球団運営にも、変革が求められました。そして、「現代ベースボール」を取り入れなければいけないまでに、ヤンキース球団の体質は追い込まれていきます。

これも、すべてあのスーパースター「ミッキー マントルの遺産」ではもはや勝てない、ファンは球場に来てくれない…ということを意味します。
ミッキーがヤンキースにいない、ということは「古きよき時代」は、もう終わった…のです。
巨人軍があの長嶋選手がいなくなった…と、同じ意味を持ちます。
時代が新しくなったことを受け入れざるを得ないのです、当時のヤンキース球団は。しかし、それは容易い道ではなかったのが、古い体質が染みついているヤンキースでした。

日本プロ野球界で「長嶋選手」はもう出てこないのと同じ意味で、大リーガーには「ミッキー マントル選手」はもう出てこない、のです。アメリカでも、日本でも「あれほどの選手」はもうボクたちは見ることがないのです。なぜか? ベースボールの体質が、今と昔とは根本的に違うからです。

古さと、新しさの間にいた野球選手の名前は…
「ミッキーマントルと長嶋茂雄」です!
彼らがボクたちに、ベースボールの楽しさを伝えてくれました。そして、彼らの引退が、新しい姿へと、ベースボールを変身させてくれたのです。

              「長嶋茂雄 背番号3」こそ日本選手の「永久欠番」
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その新たになったベースボール選手の名前が…
「ディレク ジータとA.ロッド」であり、日本人選手が「松井秀喜選手とイチロー選手」なのです。
表現を変えると、「ミッキーマントルと長嶋茂雄」が「ディレク ジータとA.ロッド」そして「松井秀喜選手とイチロー選手」を生み出した、とも言えるのです。
新しくなったベースボールを最も興奮して観戦する資格は、「ミッキーマントル選手と長嶋茂雄選手」が持っています。そして、彼らの遺産の恩恵にあずかるボクたちにも…。
ベースボールを愛する仲間たちは肌の色と言葉の違いを超えて、みんな「ミッキーマントル選手と長嶋茂雄選手」なのです!

ミッキーは、1956年。
打率.353、52HR、130打点という圧倒的な成績で三冠王に輝きました。この年、1956年のドジャースとのワールドシリーズ第5戦で決勝HRを放ち、さらに守備でもラインドライブの難しい打球を好捕するファインプレーで、シリーズ史上初となるドン・ラーセン投手の完全試合に花を添えた伝説は、いまでもボクたちの語りぐさになっています、ね…

通算HR536本のうち、左打席から373本、右打席から163本をスタンドに打ち込みました。

1974年野球殿堂入り。

ミッキー マントルのつけていた背番号「7」は引退した翌年、1969年にヤンキースの「永久欠番」に指定されました。

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(写真はYahoo!sportsサイトと個人資料から)
…NY152…
by mlb5533 | 2006-03-11 15:43 | 永久欠番

仕方がない…コメントをいただいている以上、WBCの話題を書くことにしましょう。

まあ、どうせ本日日本時間深夜に、我が「松井秀喜選手」は今年初めてのオープン戦出場でしょうから、それまでの暇つぶしをかねて…。

まずはアメリカ行きが決定して、おめでとうございます。
選手が楽しんでいる姿が、いいですね。これだと、予想以上の成績を残せるかもしれませんね。

                    米国行きが決定!
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さてさて、と。WBCのことでした。
話はアメリカの歴史から始めましょう…。
ご承知の通り、アメリカは移民の国、であります。
1776年に独立しましたが、それまでヨーロッパ各国から「自由」を求めてアメリカ大陸に渡ってきました。彼らのほとんどは「農民」でした。それも、貧しかった…。様々な文化と個人が共存するためには、時間が必要でした。宗教の違いと人種、肌の色が違う人たちと共存する人生はそんなに容易いことではなかったのです。特に人種差別はこの時代、かなり露骨でした。

1869年、世界初のプロ球団である米国北東部オハイオ州のシンシナティ・レッドスキンズ(現シンシナティ・レッズ)が創設されました。このチームがグランドに「観客」をよびました。観戦はほとんどが白人でしたが、少なくても宗教の違いと文化の違いを云々することはなく、みんなで楽しめたのです。
この観客の反応が、米国大リーグの「根幹」になったのです。みんなで楽しめるスポーツ、それがベースボールだと。とくに、1945年の戦後から、米国は「民主主義」を全世界にアピールする政策に力点を置きます。ベースボールは国内外の政策的にも、好都合なスポーツだったと言えましょう。いまや、歴史の浅いアメリカにとって「国技はベースボール」とさえ言われるほどになりましたが、その根幹は「みんなで楽しめる」があるからです。
けっして、一部の人たちの「私物化」であってはならないのです。

そして、1876年、8球団でナショナル・リーグが設立され、1900年、5球団でアメリカン・リーグ創設。翌1901年、3球団を加えて開幕。最初、ナ・リーグはア・リーグをメジャーとは認めず対立が続きます。リーグ間の選手引き抜きなどが盛んに行われていたようです。が、1903年に和解。これによりMLBは2リーグ制となり第1回ワールドシリーズも開催しました。

現在の「ワイルドカード導入」は、1995年になってのことです。この年から、3地区制に変わりました。
東西地区制が敷かれたのは、1969年。当時、選手たちの体調管理は大変なものでした。

ブルックリン・ドジャースのブランチ・リッキー会長と
a0094890_1633995.jpgさてさて。
アメリカ大リーグを語るとき、どうしても避けられないのが「42」です。
そうです、今やMLB全球団の永久欠番になっているジャッキー・ロビンソン選手のことです。
Jackie Robinson:1919年1月31日 - 1972年10月24日。本名はジャック・ルーズベルト・ロビンソン(Jack Roosevelt Robinson)。右投げ右打ち。二塁手。


彼は、アメリカ大リーグで黒人初のメジャーリーガーとなり、有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた選手として伝説になっています。彼の大リーガーとしての生涯記録は、
試合 1382   打数 4877  安打 1518  得点 947
2塁打 273  3塁打 54  本塁打 137  打点 734
三振 291  四球 740  盗塁 197  出塁率 .409  長打率 .474
通算打率 .311

米国南東部ジョージア州出身。
カリフォルニア州のパサディナ短期大学(現パサディナ市立大学)と、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)でアメリカンフットボールや野球などで活躍し、中退して軍隊へ。
退役後の1945年にニグロ・リーグのカンザスシティ・モナークスに入団。

その年の末に、当時のブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキーに誘われます。
彼の運命が一変するのがリッキー会長との出逢いだったのです。

当時ドジャースのスカウトであったジョージ・シスラーから「ロビンソンなら批判を乗り越えられるから大丈夫」と推薦を受けました。黒人がメジャーリーグに入ることで受けるであろう反感と差別にロビンソンは躊躇したのですが、リッキー会長の熱心な誘いにより、翌年からドジャースの傘下の3A・モントリオール・ロイヤルズに入団、その翌年にはドジャースに昇格した。

1947年4月15日、ロビンソンがデビュー!!
予想通り、白人たちからの反発は激しくロビンソンとリッキーの家には連日脅迫の手紙が届き、観客からの野次はすさまじく、チームメイトもロビンソンとプレイするのを嫌がって移籍した選手も出ました。
しかしロビンソンは逆境にめげず、常に紳士的に振る舞い、どのような酷いことをされても決して報復をしなかったのです。この状況の転機は8月末にやって来ました。
その日の試合で一塁のベースカバーに入ったロビンソンに相手チームの選手がスパイクを立ててスライディングし、ロビンソンに怪我をさせたことでチームが相手チームへの怒りで一丸となり、白人のチームメイトたちがロビンソンをかばったのです!! 同時にロビンソンの活躍とその態度に世論も徐々に味方するようになっていきました。

ロビンソンはこの年に打率.297、12HR、48打点、29盗塁という成績を残し、チームの優勝にも貢献し、この年より制定された新人王を受賞。翌年も活躍を続け、1949年には首位打者と盗塁王を獲得し、MVPに選ばれました。1949年から六年連続で3割を達成しているのです。

1956年にはジャイアンツへの移籍が持ち上がるが、ロビンソンはドジャースにこだわり、ドジャースにいられないならばと翌年の1月に引退してしまいました。その後、1962年には野球殿堂入りを果たしました。引退後は実業家として活躍し、また黒人差別撤廃のための政治活動に力を注いだ人でもあります。また、長男のジャッキー・ロビンソン・ジュニアが麻薬中毒で亡くなったため反麻薬活動にも積極的に参加していたことは、あまりにも有名の話です。
しかし、1972年に交通事故で突然の死去でした…。

ロビンソンの活躍により、黒人選手の門戸が開かれ、大きくメジャーのレベルを上げることになり、また黄色人種である日本の野茂英雄(彼もドジャース出身であり、ラソーダ監督の秘蔵っ子として可愛がられましたね)や、イチローを受け入れる下地となっているのは認めざるを得ません。現在のメジャーリーグでは白人のみの試合などありえませんね。
また野球だけではなく、ロビンソンの活躍が人種差別へ与えた影響も非常に大きいのです。
著書に自伝"I Never Had It Made"(邦題・黒人初の大リーガー)があるので、気になっている人は読んでみて下さい。

1997年4月15日に功績を称えて、ロビンソンの背番号「42」が全球団共通の永久欠番となった。
ただし、ヤンキースのリベラ投手など、これ以前から背番号42をつけていた選手に関しては特例として背番号42をつけることが許可されています。
また、2004年4月15日からはこの日が「ジャッキー・ロビンソン・デー」と指定、メジャーリーグの記念日になっています。

ドミニカ共和国、ベネズエラ 、イタリア、プエルトリコ、パナマ、メキシコ、オーストラリアなどの現在の大リーガーで大活躍している選手たちの姿は、まさに「42」の功績そのものと言えますね。
で、これも未だにそうですが、現在の米国内では「祖国が違う」という理由だけで、仕事を得るのには不利なのです。
未だに米国内では、マイノリティー(少数民族)の人々、だからです。その彼らが、高額の収入を得られる場所は限られます…そのひとつが、「ベースボール」という「仕事場」という訳です。
現在のMLB全球団はこの「マイノリティーの選手たち」に支えられているのであって、純粋のUSA出身者で大活躍している選手よりも、その数は多いようです。


WBCは、そんな彼らから見ると、いささか「やっかいな試合」なのです。いくら、「祖国のために」と言われても、肝心なシーズンを棒に振るようなプレーはしたくない… かといって、真っ向から反対すれば「裏切り者」呼ばわりされるのが怖いし…要するに、この企画は始めから「ヤバイ!」のです。
サッカーのような歴史の中で「ワールドシリーズ対決」は、誰もが納得するでしょう。しかし、現に大リーグを支えているのは、USA出身の選手ばかりではなくて、「マイノリティーの選手たち」がその中心的役割を担っているという事実です。

それを日本のテレビ報道は、先日の「冬季オリンピック」同様、「勝ちます!」「勝ちました!」「これでアメリカ行きが決定!」「なんとしても、アメリカに勝って欲しい!」…あのね~~、君たちみたいなアナウンサーがいるから、「野球の発展」はしなくなるのですよぉ~~。
勝つことがすべて! なんだから。アホらしい、よねぇ。
せめて、各国の選手の人物スケッチをふんだんに取材するとか…さぁ。いつから、ベースボールを始めたのか…とか、さぁ。いろいろとあんでしょ、よ。とくに、国際試合の経験豊かな日本人選手には。どんなデータをとっているのか…とか、さぁ~~。それにしても、日本の野球の有名人、清原選手は1回も国際大会に出場したことがないのは、なぜ? 
それを、本人に取材するとか、さぁ。テレビ局ならいろいろと企画していいんじゃないかしら。
「勝敗報道」ばかりじゃなくて、もう少し「ヒューマニティー」があってもいいのでは? と。
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          米国のサイトでも写真入りで紹介された多村選手の活躍

まあ、ついでなのでここで現在MBLで活躍していて、WBCに出場する予定選手を書いておいてあげます、よ。早々と「出場しない宣言」した選手も書いておきましょう。要するに、現在大リーガーの名選手揃いだということをご理解いただきたいのであります。

WBC優勝候補の
プエルトリコ:
投手
K・カレーロ アスレチックス 31  R・ヘルナンデス パイレーツ 41  J・ピネイロ マリナーズ 27
J.C.ロメロ エンゼルス 29  J・バスケス ホワイトソックス 29   
捕 手
R・カストロ メッツ 29 右右 .244  J・ロペス オリオールズ 35 右右 .278  
B・モリーナ ブルージェイズ 31 右右 .295  Y・モリーナ カージナルス 23 右右 .252
R.リベラ マリナーズ 22 右右 .396  I・ロドリゲス タイガース 34 右右 .276
J・バレンティン レッズ 30 右両 .281
内野手
C・バイエガ ナショナルズ 37 右両 .253  A・シントロン ダイヤモンドバックス 27 右両 .273
A・コーラ レッドソックス 30 右左 .232  C・デルガド メッツ 33 右左 .301
J・ヘルナンデス インディアンス 36 右右 .231  F・ロペス レッズ 25 右両 .291
E・ぺレス インディアンス 36 右右 .255  R・サンチェス ヤンキース 38 右右 .279
J・バレンティン メッツ 36 右左 .170  J・ビドロ ナショナルズ 31 右両 .275
外野手
C・ベルトラン メッツ 28 右両 .266  J・クルーズ ドジャース 31 右両 .251
R・リディー ドジャース 32 左左 .278  L・マトス オリオールズ 27 右右 .280
A・リオス ブルージェイズ 25 右右 .262  R・シエラ ヤンキース 40 右両 .229
A・トーリス ツインズ 28 右両 .158  B・ウィリアムズ ヤンキース 37 右両 .249

その対抗国が、
ドミニカ共和国:
投 手
J・アセベド 前ロッキーズ 28  M・バティスタ ダイヤモンドバックス 35
A・ベニテス ジャイアンツ 33  Y・ブラゾバン ドジャース 25  E・ブリトー フィリーズ 27
D・カブレラ オリオールズ 24  B・コローン エンゼルス 32  J・リマ 前ロイヤルズ 33
F・リリアーノ ツインズ 22  D・マルテ パイレーツ 31  P・マルティネス メッツ 34
J・メサ ロッキーズ 39   G・モタ レッドソックス 32  O・ペレス ドジャース 28
F・ロドニー タイガース 28  F・ロドリゲス 前ヤンキース 33
W・ロドリゲス アストロズ 27  D・サンチェス メッツ 26  E・サンタナ エンゼルス 23
J・ソーサ ブレーブス 28  J・タバレス レッドソックス 32  R・テヘダ フィリーズ 23
S・トーリス パイレーツ 33  J・バルベルデ ダイヤモンドバックス 26
C・バルガス ダイヤモンドバックス 27
捕 手
J・ブリトー 前ダイヤモンドバックス 26  A・カスティーヨ ナショナルズ 36
S・マルティネス メッツ  M・オリボ マーリンズ 27  R・ポーリノ パイレーツ 24
内野手
R・ベリヤード インディアンス 30 右右 .284  A・ベルトレ マリナーズ 26 右右 .255
L・カスティーヨ ツインズ 30 右両 .301  P・フェリス ジャイアンツ 30 右右 .250
J・フランコ メッツ 47 右右 .275  R・ファーカル ドジャース 28 右両 .284
J・ルーゴ デビルレイズ 30 右右 .295  D・オルティス レッドソックス 30 左左 .300
J・ペラルタ インディアンス 23 右右 .292  N・ペレス カブス 32 右両 .274
P・ポランコ タイガース 30 右右 .331  A・プホルス カージナルス 26 右右 .330
J・レイエス メッツ 22 右両 .273  A・ソリアーノ ナショナルズ 30 右右 .268
M・テハダ オリオールズ 29 右右 .304  J・ウリーベ ホワイトソックス 26 右右 .252
外野手
M・アルー ジャイアンツ 39 右右 .321  V・ディアス メッツ 24 右右 .257
J・エンカーナシオン カージナルス 29 右右 .287  V・ゲレロ エンゼルス 30 右右 .317
J・ギーエン ナショナルズ 29 右右 .283  W・ペーニャ レッズ 24 右右 .254
S・ソーサ 前オリオールズ 37 右右 .221  W・タベラス アストロズ 24 右右 .291

もしかしたら、だけどこの国の選手たちが本気だしたら…
ベネズエラ:
投 手
T・アーマス ナショナルズ 27  R・ベタンコート インディアンス 30  G・カラーラ パイレーツ 37
G・チャシン ブルージェイズ 25  K・エスコバー エンゼルス 29  F・ガルシア ホワイトソックス 29 J・ゴンザレス メッツ 31  C・ヘルナンデス アストロズ 25  J・フリオ メッツ 26
F・ロドリゲス エンゼルス 24  J・サンタナ ツインズ 26  C・ザンブラノ カブス 24
V・ザンブラノ メッツ 30
捕 手
H・ブランコ カブス 34  R・ヘルナンデス オリオールズ 29  V・マルティネス インディアンス 27
内野手:
E・アルフォンソ エンゼルス 32 右右 .277  M・カイロ ヤンキース 31 右右 .251
A・ゴンザレス レッドソックス 29 右右 .264  L・ゴンザレス ロッキーズ 26 右右 .292
C・ギーエン タイガース 30 右両 .320  T・ペレス フィリーズ 32 右両 .233
M・スクタロ アスレチックス 30 右右 .247  O・ビスケル ジャイアンツ 38 右両 .271
外野手
B・アブレイユ フィリーズ 31 右左 .286  M・カブレラ マーリンズ 22 右右 .323
E・チャベス メッツ 28 左左 .216  M・モーラ オリオールズ 34 右右 .283
M・オルドネス タイガース 32 右右 .302  A・ラミレス ヤクルト 31 右右 .282
J・リベラ エンゼルス 27 右右 .271

なお、この企画に始めから拒否反応を示したヤンキースのシェフィールド外野手は、USAの選手。ボクの憧れ、ムッシーナ投手もUSAの選手です。
守護神リベラ投手は、パナマの選手ですね。でも、WBCには出ませんよ。シーズンが大切なのだから…。ポサーダ捕手の故郷は、プエルトリコですね。これは皆様、よくご存じですが。


韓国投手陣:徐在応-金炳賢-具台晟-朴のメジャー経験投手リレーとかいっても、彼らには「徴兵免除」がかかっていますから。これも、お国柄ですね。


で、さらに不思議は「WACの2次リーグ」です。
プエルトリコ、ドミニカ共和国、ベネズエラ、キューバの強豪4カ国とは、絶対に対戦しない仕組みです。この4カ国が星のつぶし合いで勝ち上がって来てから…という仕組みになっています。よほどのことがない限り、米国はこの4強のうちで残った1チームと優勝決定戦をするでしょう…。
いや、そうしないと「ヘン」です。万が一、日本だの韓国だのという格下のチームに負けるようなことがあったら…そりゃあ、大変ですから、ね。
この大会は、アメリカのメンツがかかっているようですから…。五輪より、キツイわ、この大会は。

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最近の新聞記事を拾ってみましょう…以下の通りです。
アメリカ:WBCの米国代表候補だった抑えのビリー・ワグナー(34)=メッツ、先発のC・C・サバシア(25)=インディアンス=両投手が不参加を表明。代わりにヤンキースのアル・ライター(40)、ナショナルズのゲリー・マジュースキ(26)両投手が選ばれた。しかも、代わりに選出されたのが昨季終盤に現役引退をほのめかしたベテラン左腕のライターと、若手の中継ぎ・マジュースキ。戦力ダウンは明らかだ。先発陣は故障から復帰途中のロジャー・クレメンス投手(43)=前アストロズ、エースはマーリンズのダントレル・ウィリス投手(24)という状況に追い込まれた。
米国でWBCが盛り上がっていないとはいえ、あまりにも寂しいメンバー。合宿に入る野球の母国に暗雲が漂い始めた。
昨年のア・リーグ本塁打王のアレックス・ロドリゲス内野手(30)=ヤンキース、デレク・ジーター内野手(31)=同、通算536本塁打のケン・グリフィー外野手(36)=レッズ=らが選ばれた。

ドミニカ共和国;ペドロ・マルティネス投手(34)=メッツ=が1日、右足つま先の故障を理由にWBC辞退を決断した。メ軍の三塁ベースコーチで同代表のマニー・アクタ監督(37)は「ペドロはWBCに出場することはできない」と語った。また、レッドソックスのマニー・ラミレス外野手(33)は1週間遅れてキャンプに合流。報じられていたWBC不参加を認めた。エンゼルスのウラジーミル・ゲレロ外野手(30)も親せきの不幸を理由に「プレーできる精神状態ではない」と辞退を表明。
WBC優勝候補のドミニカ共和国で出場辞退者が続出。レッドソックスのマニー・ラミレス外野手(33)と、レンジャーズの守護神フランシスコ・コルデロ投手(30)が不参加を決めたとそれぞれ地元紙が伝えた。同外野手はまだキャンプに参加していないこと、同投手は右肩痛が理由。ドミニカはすでにメッツのペドロ・マルティネス投手(34)の欠場が濃厚。昨季サイ・ヤング賞のエンゼルス、バートロ・コローン投手(32)の辞退もささやかれており、ベストメンバーを組むのは難しくなった。

★パナマのケリー監督が辞意を表明
WBCに参加するパナマのロベルト・ケリー監督(41)が辞意を表明したことが分かった。パナマ野球連盟から十分な支援を受けられないことなどを理由にしている。米アリゾナ州で行われているジャイアンツのキャンプで指導しているケリー氏は、ラジオ局の取材に「これまでのようなやり方では、一緒にやれない」などと語った。

プエルトリコ;WBCに参加するプエルトリコ代表30選手が27日に発表され、米大リーグのカルロス・ベルトラン外野手(28)、カルロス・デルガド内野手(33)=ともにメッツ=らが選ばれた。投手は、昨季11勝のホワイトソックス・ハビエル・バスケス(29)、マリナーズのジョエル・ピネイロ(27)らで、オールスター出場12度のタイガースのイバン・ロドリゲス捕手(34)、ヤンキースのバーニー・ウィリアムズ外野手(37)らが選出された。
ヤンキースのバーニー・ウィリアムズ外野手(37)がWBCにはプエルトリコ代表で出場。中堅にはメッツのカルロス・ベルトラン外野手(28)がいるため、DHか91年以来守っていない両翼でプレーする予定だ。

カナダ:WBCのカナダ代表候補、パイレーツのジェーソン・ベイ外野手(27)とロイヤルズのマット・ステアーズ外野手(37)が、電話会見で抱負を語った。2004年ナ・リーグ新人王のベイは「WBCは、野球が盛んなことが知られていない(国・地域の)チームにとっていい舞台になる」。中日でプレーした経験を持つステアーズは「メキシコとの試合が非常に大事」と話した。

(写真はYahoo!sportsサイトより)
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by mlb5533 | 2006-03-05 03:13 | 永久欠番