ふたり揃って 「国民栄誉賞」 受賞!

「長嶋監督とふたりで素振りした時間」と、引退記者会見で松井選手は「一番印象的なことは?」との質問に、こう即答していました…。

2013年4月1日午後に内閣官房長官の菅義偉(すがよしひで)さんが記者会見で、政府が国民栄誉賞を長嶋茂雄と同時に授与する方向で検討していることを明らかにしました。
4月16日、ふたりの国民栄誉賞の授与が正式に決定。
5月5日、東京ドームで行われた読売ジャイアンツ対広島東洋カープ戦で松井の引退セレモニーと国民栄誉賞授与式が行われ、内閣総理大臣の安倍晋三さんから国民栄誉賞が授与されました。
その後の始球式では、松井選手は巨人時代のユニフォームを着用して、長嶋監督を打者に、巨人監督の原辰徳さんが捕手、安倍総理が審判になっての始球式を行いました…。ボクたち野球ファンのみならず、この時ばかりは日本中が楽しく、明るく輝いて、誇れる一日になりました…。

ふたり揃って 「国民栄誉賞」 受賞!_a0094890_13462329.jpgさあ、主役のおふたり。
お揃いのスーツ姿で登場です。

濃紺のスーツに水玉のネクタイ、ピンストライプのワイシャツも全てお揃い。まるでどこかのビジネスマンのようです。余計な装飾品などありません。式典の後で知りましたが、長嶋監督さんがわざわざこの式典のために同じスーツをあつらえて、松井選手に贈ったものだそうですよ。恩師から贈られたスーツに袖を通した松井選手の心境はいかばかりだったでしょうか。それにしても、この式典にふさわしいじつにお似合いの姿でした。

ふたりの国民栄誉賞受賞式はいままでの授賞式とはずいぶん違いました。


国会内でもなく、首相官邸内でもなく、国民がふだんからたくさん集まる場所であり、ふたりにちなんだ場所でもある後楽園の「東京ドーム」が授賞式の会場に選ばれました。しかも、日取りは黄金週間の5月5日「こどもの日」です。
日本国中から、みんながあつまった。この式典に自分も出席してふたりの晴れ姿と自分の人生をともに祝うかのように、5万人が会場を満席にしました。
遠方から来られた方、夜行バスを使ってきた青年たち、海外から参加した家族などなど…。
5万人のそれぞれ違った想いを携えて、長嶋さんと松井さんの式典に同席して、ふたりを祝しています。まさしく、ここに集まった人たちは人生の時間を共有していました…。

そもそも、事の始まりは安倍総理が東日本視察を終えた昨年12月29日、東京に戻る新幹線の中で「敗北主義から抜け出し、強い日本を取り戻す」というスローガンを掲げた安倍首相は「誇らしい日本」を国民に印象づけるイベントに頭を痛めていたが、このとき、「師弟関係のふたり」の存在を思いつき、内閣に検討するように指示したといわれる。舞台に例えると、今回の「企画・演出」は安倍晋三さん、ということになりますね。

ボクは仕事の都合で新潟・直江津からテレビでふたりの様子を見ていましたが、「戦後」という言葉をあえて使いたくなる光景だなあ、と感じました。

「戦後、これほど美しく個人を讃える式典がボクたちの日本国内であっただろうか…」と。
ふたりがお揃いの濃紺姿でドームの廊下を歩く姿がテレビに映し出された瞬間、ボクは不覚にも、人前であるにもかかわらず、その美しさがとても眩しくて、熱い感動を抑えきれません。目頭から熱いものが落ちていました…。

ふたりはボク個人にとっては「英雄」であり、日本の「戦後史」そのものでもあるとボクは思っていました。「昭和の物語」と「平成のドラマ」を正確に繋いで時空を重ねてくれたのは、ボクは「このふたりだ」と断言できます。それは「師弟関係」というあまりにも古典的な日本の道徳心の常識的な関係であり、日本的な、伝統的な、ローカル文化であり、ふたりの人間が世代を超えて繋がっていた事実が、日本人にはより一層身近に感じられたのでしょう。長嶋さんが大活躍した昭和30年代から40年代の頃、日本は世界各国から「モノ造りニッポン」と高い評価をいただいた。
日本経済を永年支えた「終身雇用制度」がその礎にあった。当然のこと、師弟関係はビジネスの世界でも当時は「常識の常識」だった。ところが、日本人は自分たちの組織の中枢であるこの「制度」を自ら放棄して、「欧米みたいな」経済界と政治体制を作ろうと方向転換をした。その副作用が、人とのコミュニケーションの崩壊だった。「チームプレーの時代」から「自分主義の時代」に変換した…。でも、日本人は心の奥底で知っている。師弟関係の美しさを…。人を育てる歓びを…。
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長嶋監督と松井選手は、「日本の心」をそのまま自分たちの「仕事場」に惜しみなく使っていたのだろう…とボクは確信しています。長嶋さんは若き松井選手にこういっていました。
「生涯で一回しか球場に来られない人もいる。その人のためにも試合を休むな」と、伝え続けました。ということは、長嶋さん自身もそういう姿勢で17年間、2186試合、1522打点を叩き出した「あの仕事」をし続けていたことになります。
松井選手は20年間、日米と太平洋をはさんで、日本では1268試合 米国では1236試合 合計2504試合に出場して 日本で889打点 米国では760打点 合計1649打点を叩き出しました。そのパワーの源は「ファンのために」という監督さんからの直伝をやり続けたということです。そして、常に「チームの勝利」を叩き込められました…。
これこそが、ふたりのうらやましいほどの「師弟関係」が築かれた理由だったのでしょう。 

…ふたりの足跡をまるで走馬燈のようにさまざまな想い出の光景が蘇ってきます。
きっとそれは、ボクだけではなかったと思う。テレビを観戦している全ての国民が自分の人生と、ふたりが活躍した時代とのかかわりを蘇らせていたのではないでしょうか…。「あの時オレも…」「スげぇ試合だった」「忘れないよあの時だろ…」と、まるでシェイクスピア・ヘンリー五世の台詞を聞いているかのように、時をわすれて人々はふたりの自慢話に花を咲かせる…。

長嶋さんは立教大学4番打者として六大学リーグで活躍していました。当時はプロ野球より六大学野球のほうが人気があったといいます。その頂点にいたのが長嶋さんだった。彼が昭和33年、巨人軍に入団すると彼のファンの視線は一斉に六大学リーグから、プロ野球に移行した…。長嶋さんの一挙手一投足が茶の間の話題なっていきました。
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大衆の視線の移動が「巨人軍の歴史」を作っていく大きなきっかけになりました。その立役者が、我が「長嶋茂雄」、なのです。いまさら記すこともありませんが、長嶋さんは日本の人たちから「視線」を感じていたのです。だから彼はファンを大切にしてきましたし、マスコミとのかかわりも大事にしてきました。そして、数々の「伝説」と「記録」も作っていきました。グランドではまるで舞台俳優のように華麗なフットワークの守備を披露してくれました…。プロ野球の「仕事ぶり」をナガシマを通して初めて日本人は知ることが出来たといえます。展覧試合でのサヨナラホームランなどなど…を。
そんな長嶋さんが38歳で現役引退をしましたが、あの式典は「日本国民が総泣きした日」でしたね。その年の6月に松井秀喜さんが誕生しています。そして、松井さんもまた38歳で現役を引退しましたね…。

松井選手はボクにとって、さほど気になる存在ではなかったのです。
ところが、です。02年、「裏切り者と言われるかも知れませんが、ヤンキースに行きます」との記者会見はボクの視線を再び大リークに移行させるきっかけになりました。ボクもひとりぼっちでニューヨークで仕事をしていた頃があったので、若かった自分の懐かしさと、ひとり太平洋を渡る松井選手の活躍ぶりが気になったのです。

松井選手の大リーグ移籍は、それまで巨人軍4番打者・松井選手のファンである方々の視線をそっくりそのまま、米大リーグに移行させたとボクは思っています。かつての「ナガシマ現象」のように。それは、野茂投手のドジャース移籍とは格段に違っていました。子供たちまで「大リーグ」を身近に感じたのです。しかも、ヤンキース、です。「マツイ物語」が生まれないわけがない…。
最高の舞台でした。

トーリ監督さんからの評価が紹介されたり、ニューヨークの王子様・ジータ選手からの「友情宣言」であり、ヤンキースの4番打者・バーニー選手からの祝福であり…多くの大リーガーたちからお祝いのコメントが届きました。米国のメディアでも、マツイの「国民栄誉賞」を祝福する記事を報じました。

ここで、トーリ監督さんのコメントを記しておきます。
「松井&長嶋両氏へ米国から祝福」と題して記事が掲載されました。
ヤンキース時代の恩師で、現在は米大リーグ機構の副会長を務めるジョー・トーリ元監督(72)が松井、長嶋両氏へ祝福のメッセージを送った、と。

 おめでとうございます。日本球界を代表する2人にふさわしい賞で、どちらとも交流があることは大変光栄です。
 ヒデキとの思い出は尽きません。真面目な男ですが、実はユーモアのセンスも非常にある。チームミーティングの最後に指名するとユニークな発言を用意していて、同僚たちを爆笑させてリラックスさせてくれました。
 選手としての思い出はマーリンズとの2003年ワールドシリーズ第2戦。一回二死一、三塁のカウント3ボールで「待て」ではなく「打ってもいい」のサインを出しました。入団1年目でしたが、すでに状況に応じた打撃をしてくれると信頼していました。先制3ランという最高の結果で期待に応えてくれました。
 指導者の資質は十分。野球をよく知っているし、周囲から人間として尊敬もされている。イサオ(元専属広報の広岡勲氏)の三塁コーチ起用は勧められませんが(笑)、将来は監督に挑戦してほしいと思っています。
 長嶋氏に初めて会ったのは、メッツの一員として日米野球で来日した1974年。食事をする機会もあり、抜群の人気とチームを引っ張る姿が印象に残りました。
 2人のプレーからは、勝利への強い執念を感じました。グラウンドで独特の雰囲気を漂わせていた理由かもしれません…。
と、述べている。

…松井選手は、「日本球界」と「米国ベースボール界」を繋いだ「民間外交官」としての仕事を無意識にしていたことにもなります…。
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それだけ、松井選手は米国でも成功した人なのです。
「彼は謙虚だ」と言うコメントがとても多かったように、「師弟関係」で培ったコミュニケーションは米国でもちゃんと通じるのであります。そうです、ボクも体験から実感していますが、ね。

そんな長嶋茂雄巨人軍名誉監督と松井秀喜選手の同時受賞です。
こんな粋な計らいをしてくれた日本政府の総理・安倍晋三さんもまた野球道を知っておられる楽しい方に見えてきます。式典のなかで、安倍総理は素晴らしい笑顔でいてくれたことを、国民は忘れないでしょう。「96」の背番号って? と、テレビを見ていた子供たちは大人に訊ねたことでしょう。「96代目の総理大臣」だからと、ふだんは政治評論をしているテレビのアナウンサーでさえ、言ってくれませんでした。
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こんな楽しくも、暖かい時間を日本国民に与えてくれた安倍総理は政治家であると同時にまた、ボクたち同様の野球狂なのかも知れないと、妙に親近感を感じました…。

ふたり揃って 「国民栄誉賞」 受賞!_a0094890_14424854.jpgなにを書いても書き足りません…。
東京に戻った昨日6日、録画を見たら新潟で見た内容と全然違っていました。録画の方がいい内容です…。しばらく、この映像を楽しむことになりそうです。
松井選手が監督さんになるとか、先のことが話題なっていまが、ボクはしばらくはアメリカ生活をしておくほうがいいのでは…と。どうせマツイ家の自宅はニューヨークなのですから、松井選手のことですから、自分でヤンキースに声をかければそこで仕事ができるだろうし、お子様の通学も、そして自分の希望でもある進学もしたりしてもいいのではないかなあ…なんて、お節介ですが、そんなこともいまは思っています。




最後になりましたが、松井選手が国民栄誉賞授賞式の直前にあいさつした「引退のあいさつ」と、受賞した「あいさつ」のことばをボクが野球ファンだった歴史として、そして松井選手を書き続けた日々と、このブログで出逢った「ブロ友さん」たちとのかかわりを含めて、私的なささやかな記念碑としても、ここに記しておくことにしました。




「引退のあいさつ」

ジャイアンツファンのみなさま、お久しぶりです。
2002年 ジャイアンツが日本一を勝ち取った
直後 ジャイアンツ そしてファンのみなさまに
自らお別れを伝えなければいけなかったとき
もう二度とここに戻ることを許されないと
思っていました。

しかし 今日 東京ドームのグラウンドに
立たせていただいていることに
今 感激で胸がいっぱいです。

1992年のドラフト会議で私をジャイアンツに導いてくださったのが長嶋監督でした。
王さんのように 1シーズンでホームランを
55本打てるようなバッターを目指せと 
背番号55をいただきました。
将来は立派にジャイアンツの4番バッターを
務めなくてはいけないと思い 
日々 努力したつもりです。




ジャイアンツの4番バッターを任せていただけるようになり
誇りと責任を持って毎日プレーしました。
ただ その過程には常に長嶋監督のご指導がありました。
毎日毎日 ふたりきりで 練習に付き合ってくださり ジャイアンツで4番バッターに必要な心と技術を教えていただきました。
また その日々がその後10年間 米国でプレーした私を大きく支えてくれました。
そのご恩は生涯忘れることはありません。

今日 ファンのみなさまに久しぶりにお会いしたにもかかわらず 
再びお別れのあいさつとなってしまい 
もう一度プレーする姿をお見せできないのは
残念ですが これからも僕の心の中には常に 
ジャイアンツが存在しつづけます。
どういう形か分かりませんが またいつか 
みなさまにお会いできることを夢見て 
また新たに出発したいと思います。



ジャイアンツでプレーした10年間 
そして 米国でプレーした10年間 
いつもいつも、みなさまからの温かい声援が
僕に元気を与えてくれました。

ファンのみなさま 長い間 
本当に本当にありがとうございました。

………  ………  ………  ………  ………  ………  ………  ………  ………  ………  ………





「国民栄誉賞受賞のあいさつ」

私はこの賞をいただき 大変大変光栄ではありますが 
同じくらいの気持ちで 恐縮もしております。
私は王さんのようにホームランで 
衣笠さんのように連続試合出場で 
なにか世界記録を作れたわけではありません。
長嶋監督の現役時代のように 
日本中のファンの方々を熱狂させるほどの
プレーが出来たわけではありません。

ボクが誇れることは 
日米の素晴らしいチームでプレーし 
素晴らしい指導者の方々
チームメイト 
そして素晴らしいファンに恵まれたことです。




今後 偉大な お三方の背中を追いかけ 
日本の野球の そして野球を愛する国民のみなさんの力に少しでもなれるように 
努力していきたいと思います。

この度は 身に余る光栄ではありますが 
ただただ 私を支えてくれたファンの皆様 
そして私が野球でかかわったすべての方々に感謝を申し上げたいと思います。

ほんとうに ありがとうございました。






…NY152…
by mlb5533 | 2013-05-07 14:46 | 第二部