Yankees「#7」の物語

今日はNYYの「永久欠番」のお話でもしましょうか…その第1話です。

ヤンキースファンでも知っているようで、案外忘れているかもしれませんよ。

下記がYankeesの「永久欠番」です。

1 番  ビリー・マーチン (Billy Martin)
3 番  ベーブ・ルース (Babe Ruth)
4 番  ルー・ゲーリッグ (Lou Gehrig)
5 番  ジョー・ディマジオ (Joe DiMaggio)
7 番  ミッキー・マントル (Mickey Mantle)
8 番  ヨギ・ベラ (Yogi Berra) 及びビル・ディッキー (Bill Dickey)
9 番  ロジャー・マリス (Roger Maris)
10番  フィル・リズート (Phil Rizzuto)
15番  サーマン・マンソン (Thurman Munson)
16番  ホワイティ・フォード (Whitey Ford)
23番  ドン・マッティングリー (Don Mattingly)
32番  エルストン・ホワード (Elston Howard)
37番  ケイシー・ステンゲル (Casey Stengel)
44番  レジー・ジャクソン (Reggie Jackson)
49番  ロン・ギドリー (Ron Guidry)

★42番  ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson) 42番は全球団で永久欠番。
ただし、現在はマリアーノ・リベラがつけています。これも、リベラ投手が引退(想像したくもないけど)したら、彼個人の功績をたたえての永久欠番になるのは確実でしょう。

現在16人。それに、「42」を加えれば、17人もの多くの永久欠番があるのは、もちろんYankeesが最高数です。

Yankeesで現存するひと桁の背番号は「2」と「6」ですが、
2番 ディレク・ジーター (Derek Jeter)
6番 ジョー・トーリ(JoeTorre=本名:Joseph Paul Torre:ジョゼフ・ポール・トーリ)監督
このふたりの背番号も、もはや「永久欠番」になるのは誰もが信じていることですね。
これで近い将来、Yankeesはひと桁の背番号は存在しなくなる訳ですね。

          ボクの部屋の壁に額入りで飾ってある「ミッキー500号」の記念写真
Yankees「#7」の物語_a0094890_341362.jpg

ボクはちょっと前まで、自分のメールアドレスを「NYY7…」にしていました。
NYY7。
そう、「Mickey Mantle(ミッキー マントル)」の背番号です。Yankeesの永久欠番です。
ボクがYankeesと出逢えたのは、この人の物語をNYの友だちが熱く語ってくれたことから始まりました…。まだ、経済記者として単身でNYに赴任していた頃のお話です。
もう…十数年以上も前のことですが。とにかくあの頃、ボクは#7にすっかり魅了されてスタジアムに行くと近くの屋台のNYYグッズの中から、#7関係を買いあさったものでした。

なので本日は、ボクの個人的理由から、NYY7「ミッキー マントル」を書せてください…

Yankees「#7」の物語_a0094890_3423867.jpg彼の半生を描いた映画に「61*」があります。
Mickey Mantleには、ハリウッドスターのトーマス ジェーン
Roger Marisには、性格俳優のバリー ペッパー
が扮しましたが、大変に米国内では物議を提供してしまった映画でした。
それは、あまりにも「事実」に忠実に創ったが為に元ヤンキースにかかわりのあった人たちから、かなりの批判が生じました。誰か? それは、ご覧になるとお分かりになるでしょう…。
この件については、「9:Roger Maris」を後述のときに詳しくご説明しましょう。

さて、ミッキーです。本名:Mickey Charles Mantle.

オクラホマ州スパビノーで1931年10月20日に生まれました。    
通算536本のHRは、スイッチヒッターとして歴代1位の大記録です。
ミッキーがスイッチヒッターになったのは、父親の影響でした。オクラホマの鉱山技術者だった父親はベースボールが大好きな人で、休日は仲間たちとグランドに行ってプレーしていたようです。
スイッチヒッターだった父親のバッティングフォームを子供時分から見ていてミッキーはその影響で、彼も自然と右でも左でも打てるようになったというのが、その伝説の始まりなのです。

ミッキーの魅力は、なんと言ってもあのとんでもない飛距離で飛んでいくデッカイHRでしょう。
最大では180メートルも飛ばしています。
本人が「私の野球人生の中で最も強烈な打球」と言うのは、1963年5月22日にヤンキースタジアムでカンザスシティ・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)のビル・フィッシャー投手のカーブを打ち込んだ時、もう少しで大きなヤンキースタジアムのライトを越えそうだったという驚異的飛距離。このホームランの推定飛距離は189mとも224mとも言われています。

Yankees「#7」の物語_a0094890_3442189.jpg映画会社トライスター社創設の第1回作品「ナチュラル」では、この逸話を元にして、ロバート レッドフォード扮するロイ選手がスタジアムのライトに打球をぶつける感動的なシーンがありますが、これはあきらかにミッキー伝説を知り尽くした脚本家による「ファンタジー」でしたね。

こんな飛距離を出す選手は、後にも先にも、ミッキーだだひとりではないでしょうか…。
ミッキーの大ホームランは当時でも記録的で、「どれくらい飛ばすんだろう?」と、ファンたちも正確な飛距離を知りたくなったようです。そこで、球団広報が実際に巻き尺を持ち出しました。
1953年4月17日のことです。ワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)の本拠地グリフィス・スタジアム(当時)で放った打球は、スタンドを飛び越えてはるか場外へ…。球団広報が巻尺を用いて落下地点までの飛距離を計測した結果、なんと約172メートルも飛んでいました。
正式に記録された打球としては、冗談みたいな話ですが、事実これが現在でもメジャー史上最長弾になっています。
ポストシーズンでの18HRはメジャー史上最高記録で、今もメジャーリーグ記録です。

                                         1961年 ロジャー マリスと
Yankees「#7」の物語_a0094890_345390.jpgまた一方で、ミッキーは俊足で、ドラッグバントも得意としていたことも、ファンは記憶しています。
彼の現役時代は指名打者制度(1974年)がまだなかったため、もし導入されていればもっと長く現役生活を続けられていただろう、と悔やまれます。
想像すると、こんな選手なのです…
バリー ボンズ選手のパワー + R.レッドフォードの甘いマスクと金髪 + イチローの俊足 = ミッキー
なので~~すぅ!! 想像できますか? スゴすぎ、でしょ!

1951年にニューヨーク・ヤンキースの一員としてデビューして以降、ヤンキース一筋の野球人生を過ごし、1968年に引退しました。
しかし、ミッキーはその影で、怪我との戦いを繰り返していたのです。

1951年、弱冠19歳でメジャーリーガーになったミッキーに、多くの注目が集まったのです。
というのも、チームの看板選手でもあったジョー ディマジオの限界説と引退話が集中、新しく若いスターの登場が球団側に求められていたのです。
この年限りで引退するディマジオがセンターを守り、ミッキーがライトを守るという新旧スターが外野で名を連ねたまでは、よかったのですが…。
しかし、若いミッキーは調子が上がらず、その年7月半ばにはマイナー降格でした。ミッキー自身もかなり落ち込んだようでしたが、父親の励ましで復活。桁違いの成績をマイナーで残したミッキーは、8月末にはメジャー復帰。
この年のワールドシリーズでは相手はジャイアンツ。
その第2戦。ウイリー・メイズの打ったフライを追ったミッキーが外野のスプリンクラーに足を引っかけ、右膝を切ってしまうという重傷だったのです。まさに、右足は血だらけ状態だったようです。すぐに手術したものの、「この傷」がミッキーのベースボール人生を狂わせました。彼は引退するまで、この膝の故障に悩まされ続けたのです。しかし、当時のミッキーはその事実をチームメイトはもとより、誰にも語らずにいたということです。デビュー出来た最高に素晴らしい年、だったのに…。

この原因が、ジョー ディマジオの深追い、だったと言われています。
あのプレーは、あきらかにミッキーの捕球で十分でした。しかし、大先輩ジョー ディマジオの「アイガリ!」のひと声で…。以後、ミッキーはジョー ディマジオを避けるようになったという話が、近年になってから元チームメイトから聞かれました。

そして、1963年。
フェンスに体当たりして、左足を骨折。シーズンの大半を棒に振ってしまいました。
翌1964年に打率.303、35HR、111打点という好成績を残しましたが、ミッキーらしい成績を残したのはこの年が最後でした。
この年のワールドシリーズでもカージナルスに3勝4敗で敗北。これ以降、ヤンキースは11年もワールドシリーズの舞台に立つことがなくなります。そして、あの80年代の「冬の時代」になっていきます。「万年ビリはヤンキース」「地に落ちた球団」になっていきましたね…

晩年のミッキーは怪我に苦しめられ、ファーストに移ることも。
そして、結果的には1969年の開幕前に引退を発表しました…

ミッキーの引退は結果から見ると、「古きよき時代/ヤンキース」の幕が下りたことを意味します。
その後、ヤンキース球団は黒人選手問題だの解決しなければならないことが山積みされたままだったことを知ります。球団運営にも、変革が求められました。そして、「現代ベースボール」を取り入れなければいけないまでに、ヤンキース球団の体質は追い込まれていきます。

これも、すべてあのスーパースター「ミッキー マントルの遺産」ではもはや勝てない、ファンは球場に来てくれない…ということを意味します。
ミッキーがヤンキースにいない、ということは「古きよき時代」は、もう終わった…のです。
巨人軍があの長嶋選手がいなくなった…と、同じ意味を持ちます。
時代が新しくなったことを受け入れざるを得ないのです、当時のヤンキース球団は。しかし、それは容易い道ではなかったのが、古い体質が染みついているヤンキースでした。

日本プロ野球界で「長嶋選手」はもう出てこないのと同じ意味で、大リーガーには「ミッキー マントル選手」はもう出てこない、のです。アメリカでも、日本でも「あれほどの選手」はもうボクたちは見ることがないのです。なぜか? ベースボールの体質が、今と昔とは根本的に違うからです。

古さと、新しさの間にいた野球選手の名前は…
「ミッキーマントルと長嶋茂雄」です!
彼らがボクたちに、ベースボールの楽しさを伝えてくれました。そして、彼らの引退が、新しい姿へと、ベースボールを変身させてくれたのです。

              「長嶋茂雄 背番号3」こそ日本選手の「永久欠番」
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その新たになったベースボール選手の名前が…
「ディレク ジータとA.ロッド」であり、日本人選手が「松井秀喜選手とイチロー選手」なのです。
表現を変えると、「ミッキーマントルと長嶋茂雄」が「ディレク ジータとA.ロッド」そして「松井秀喜選手とイチロー選手」を生み出した、とも言えるのです。
新しくなったベースボールを最も興奮して観戦する資格は、「ミッキーマントル選手と長嶋茂雄選手」が持っています。そして、彼らの遺産の恩恵にあずかるボクたちにも…。
ベースボールを愛する仲間たちは肌の色と言葉の違いを超えて、みんな「ミッキーマントル選手と長嶋茂雄選手」なのです!

ミッキーは、1956年。
打率.353、52HR、130打点という圧倒的な成績で三冠王に輝きました。この年、1956年のドジャースとのワールドシリーズ第5戦で決勝HRを放ち、さらに守備でもラインドライブの難しい打球を好捕するファインプレーで、シリーズ史上初となるドン・ラーセン投手の完全試合に花を添えた伝説は、いまでもボクたちの語りぐさになっています、ね…

通算HR536本のうち、左打席から373本、右打席から163本をスタンドに打ち込みました。

1974年野球殿堂入り。

ミッキー マントルのつけていた背番号「7」は引退した翌年、1969年にヤンキースの「永久欠番」に指定されました。

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(写真はYahoo!sportsサイトと個人資料から)
…NY152…
by mlb5533 | 2006-03-11 15:43 | 永久欠番